*政治的な内容を含みます。ご注意を

6.29.2014

【書評】​ 1Q84 (村上 春樹 著、2009年)



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もともと小説や文学と言うジ​​ャンルは苦手な方で、読む割合としてはずっと社会系のほうが多いのだけど、「文学とかそういうのもバランスよく読んどかないとまずいんだろうなー」と、漠然とした危機意識のようなものをいつも感じています。
かといってどれから手にとればいいかもいまいち分からないんで、日本史なら抵抗もないので、司馬遼太郎など歴史ものはよく読むようになりました。

右でも左でも、とにかく読書家と呼ばれる人は常に尊敬するのですが、最近図書館で借りた 「聖書を語る」の中で、佐藤優 氏がキリスト教的アプローチから、わりかし好意的に論評されてたのを読んで、返却ついでに借りて読んでみました。村上デビューです。

なんですが、、えらい残念な内容でした。(佐藤優とか宮台真司とか、嫌いではないけど頭よすぎてわけがわからんことを言い出すところが困る。)

これが世に聞くラノベ?というやつなのか、純文学なのか、ポストモダンだか知らないですが、、約600ページが3巻ですから、3日半もかけてがんばったんですが、残念ながら、人生最悪のクソ本が更新されてしまいました。(それまでは、官僚たちの夏 (城山 三郎 著、1980)という胸糞悪いクソ小説でした。)

まずなんといっても、とにかく性的シーンが多い。文学がときに性を伴うのはありがちとはいえ、「それここで必要なの?」と言わずにはいられないくらい、とにかくやりまくります。
「おちんちん」とか「陰毛」とか「胸のかたちが」とか、もうあちこちそんな話ばっかりで、そんなの期待してたわけでもない身には不快極まりないんですが、そういのを全部「割愛」すれば、たぶん全編50ページくらいに収まるんじゃないだろうかといえるような内容です。
そしたら、まあそれなりに続きの気になるライトサスペンスで、ああ今思えば、浦沢直樹 氏の漫画「モンスター」に雰囲気が少し似てるかもしれない。もちろんあっちのほうがずっと面白いけど。​

ともかく一人の表現者として、著者は何かを世に問いたい意思があるはずですが、それは「おちんちん」抜きに語ることはできないんだろうか?著者が50代か60代だか知らないけれど、かりに私の父親がこんなものを世に発表でもしたら、世間様に対してはずかしくて、毒殺でもせずにはいられないと思います。


いちおうそれ以外の内容について

「リトル・ピープル」や「空気さなぎ」が結局何を意味するのか。それはハルキストやハルキッカーの皆さんに任せるとして、いくつか説明が不足しているものの中で、私が見逃すことができないのは、NHK父さんの存在です。
これは、(青豆の側と同じく、)天吾の幸せとはいえない生い立ちから引きずっている葛藤にキリをつけて、それまでのどちらかと言えば、流れに身を任せ自分にさえ無関心なような生き方から、はじめて積極的に生きる意義を見出して、幸せをつかむ生き方に転換するための、重要な「ジャンプ台」であるはずですが、それにしてはイマイチその描写が理解できません。

・NHKお父さんは間違いなく生物学上の天吾の父親である
・昏睡状態の間でも天吾の語りかけはちゃんと意識に届いている
普通に考えればたぶんこれは相違ないと思うんですが、、
じゃああのしつこくドアをNHKノックしてたのはどういう目的で何を意味するのか?しかも、天吾がそれをもう止めてくれ、しなくていいと訴えた後にも、まだ続いたのもおかしい。それだと、天吾の語りかけは、何にも届いていなかったの?いやそもそもあれお父さんじゃなかったの?と言う話になってしまう。
遺言で死出の衣装にNHKの制服を着せると言う描写、これも何を読み取ればよいのか分からない。まさか、最期までそこ(職務)から離れられなかった人間としての器量の小ささへの軽蔑?ということはないと思うんだけど、かといって父親のまじめさへの尊敬の描写としては、あまりにおかしすぎる。

アマゾンのレビューもちら見したけど、すでに言われているとおり、この物語で一番不自然なのは、青豆が自らの罪に対してほとんど真剣に向き合っていないことだろう。徐々に追い詰められ迫る「危機」と、それを乗り越えて天吾と再開を果たし1Q84を抜け出すまでの強い「意志」は見事に描かれているが、明らかにそこに、人殺しの罪意識の描写が抜けている。天吾とおなかの子供のことを思えば思うほど、この過去が重大な意味を持つはずなのに、その葛藤が全く描写されていない。(婦警友達が殺されたのは、きっとさきがけの報復で、私の身代わりで犠牲になったんだ、とかいう解釈さえされていなかったはず。)

1Q84を抜け出た後、最期に「おそらくこの世界はこの世界なりの脅威があり、危険が潜んでいるのだろう」とは書かれているけど、普通に考えればもうそこは、さきがけもふかえりもいない、平穏な幸せが待っているのだろう。でも本当にそれで終わらせていいのか?​(まさか笑うセールスマン的シュールエンドが待ってるとは思えないし。)

たぶん、​青豆が1984に戻った先の話しより、青豆がいなくなったあとの1Q84がどのようなものかを考えたほうが、意味があるのかもしれない。
たとえば、終盤にかけて圧倒的な存在感を示したタマル(筋金入りのゲイ)が、さらなる闇の力であっさり葬られて、マダムが身の危険におびえるとか。そういう描写があれば、多少は因果というものを考えるだろう。
さきがけは、おそらく後継者問題で崩壊していくのだろうけど、そういえば筆者は、あきらかにオウムを素材にしているはずなのに、不思議なほどリーダーを無垢であるかのように描いているんだけど、これも腑に落ちない。筆者はカルトをどのように捉えているんだろう?
またそのリーダーとふかえりを結ぶはずのエビスノ先生も、なんとも役が不足でおわってしまい、これも残念。
牛河は、主人公以外で唯一、月の異常に気付いた重要な役を負ったわけだけど、これは結局天吾と青豆を結びつけるために、便宜上そうさせただけなんだろうか?元の世界に戻れた人間と、それができずに終わった人間をわけたもの、そんなのは考える意味は無いのかな。

いやそもそも、青豆天吾が、なんでそんなに惹き合ってるのか?子供の頃手をつなぎあった思い出が鮮明だからってだけでは、この物語を支えるには明らかに弱すぎる。たとえば、10才の時のその出会い自体が、じつはリトルピープル?の仕業だったとか、、それならそれなりにシュールにつながるとおもうんだけど。


青豆と天吾の、はじめ関連が見えなかった両者が、場面を入替ながら空間的・時間的にどんどん関係を近くして、終盤で牛河が加わってそれらを一気に一点に収束させていく描写は、読み手をとてもうまく惹きつけます。ただ、各人の推理や勘に飛躍がいくつもあって、その強引さが若干残念にしていると思われます。

色んなものが中途半端でおかれていて、それを圧倒するような明確なメッセージがあるかといえば微妙で、あくあでミステリー、サスペンスの範疇で、とてもノーベル文学というものではないという感想です。


### 20140630 追記 ###
web上で見つかる書評を何気に見ていて、いくつか思うところがあったので以下追記します。

「ノーベル文学」(の候補)って言うくらいだから、何か崇高なイメージを勝手に持ってたのですが、、どうもこの「謎解き」自体が、村上作品の醍醐味で広く支持されている理由なんだと、今知りました。そうか、それならもっと違った読み方があったと思うし、書評にする前に読み直しもしたと思うのに。映画ならまだしもミステリー小説なんて手にとったことないよ。。村上作品をずっと本格的に考察されてる方のサイトを見てると、自分の読みの浅さを反省させられます。

もちろん筆者が正解を認定してるわけではないので、あくまでそのかたの解釈なんでしょうが、私の上の理解といくつか対比しておくと、

>青豆がいなくなったあとの1Q84がどのようなものかを考えたほうが、意味があるのかもしれない。

どうせならこんな風に考えたら面白いのでは、と言うくらいのつもりだったんですが、確かに本文中に、「この世界は一つ、パラレルではない」とはっきり言われてますので、私の上の考察は意味がなさそうです。でもそれだったら本当に投げっぱなしになるな。

>そのリーダーとふかえりを結ぶはずのエビスノ先生も、なんとも役が不足でおわってしまい、これも残念。

エビスノ先生がさきがけの出資者で、いわば全体の脚本家のような考察をされてましたが、たしかにそれくらいの役がふさわしいと思う。うーん、ただもう少しそれを示唆する描写が必要に思うんですが。でもこうやってちゃんと読み解いてるかたもいるので、自分の読解が足りないだけか。。

>・NHKお父さんは間違いなく生物学上の天吾の父親である

たしかにお父さんは、「空白から生まれた」と言ってるんですが。。これに限らず、どこまで劇中のせりふをそのまま事実とするかは難しいですね。それだとファンタジーになってしまうし。


全体としては、やっぱり受け付けにくいところがあるんですが、とはいえ今回は惨敗なので、別の作品に当たってみたい思いが無いでもない。